戦争の時代を経て岩手県の巡査となり、岩泉・遠野の駐在所とともに歩んだ父・小森林清言。その生涯を関係図・年表・回想でたどる。延佳 記。
父と家族の軌跡
関係図
高橋家
旧番地:彦部第5地割92番地
- 高橋万六 ─ フヨ
- リエ(二女、明治19年生)
小森林家
旧番地:亀ヶ森第21地割字田子屋25番地
- 小森林熊藏 ─ サヨ(亡)
- 春松(長男、明治19年生)
- サタ(亡)
- タミ(明治20年生)
- 政勝(二男、大正14年生)
- チヨノ(長女、明治40年生、前妻の子)
- ミノリ(二女、大正2年生)
- アエコ(四女、大正10年生)
- 春松(長男、明治19年生)
- 小森林熊藏 ─ リエ
- 清言(二男、大正6年生)
関係図下部の記載
- 明治39年 熊藏の子、春松とサタ婚姻
- 明治42年 サタ死亡
- 大正2年 熊藏の子春松はタミ婚姻
- 明治43年 リエ24歳の時、熊藏の後妻となる
- 7年後の大正6年に清言誕生
- 大正14年 熊藏死去
- 熊藏亡2年後の昭和2年に彦部に戻る
年表
| 西暦 | 和暦・日付 | 記載事項 | 年齢 |
|---|---|---|---|
| 1910 | 明治43年 | 熊藏とリエ24歳、婚姻 | |
| 1917 | 大正6年9月1日 | 誕生。名、清言と云う | |
| 1925 | 大正14年9月 | 熊藏死去 | |
| 1927 | 昭和2年1月7日 | リエ、婚姻解消により彦部に戻る | |
| 1937 | 昭和12年7月7日 | 蘆溝橋事件(支那事変)勃発 | 20歳 |
| 昭和12年8月31日 | 北支方面軍、第一軍、第二軍の戦闘 | ||
| 昭和12年 | 第108師団北支派遣 | ||
| 昭和12年 | 独立混成6旅団歩兵第23大隊第一中隊に配属 | ||
| 昭和13年2月22日 | 徐州にてスナップ写真 | 21歳 | |
| 1940 | 昭和15年4月29日 | 皇居宮城にて支那事変勲章授与 | 23歳 |
| 昭和16年 | 彦部字定内42番地に住居を持つ | ||
| 昭和17年4月 | 招集(弘前)、勝第5228部隊 | ||
| 昭和17年4月9日 | 機関銃中隊に配属 | ||
| 昭和18年7月19日 | 北部第16部隊に転属。山西省洪洞着、洪洞・沁源・沁水 | ||
| 昭和18年8月10日 | 招集解除(弘前) | ||
| 昭和19年12月 | 岩手県巡査拝命 | ||
| 1944 | 昭和19年12月5日 | 警察練習所普通科に入所 | 27歳 |
| 昭和20年1月15日 | 静代と婚姻 | ||
| 1945 | 昭和20年3月5日 | 警察練習所卒業 | |
| 艦砲射撃、釜石被害 | |||
| 昭和20年3月5日 | 卒業。岩泉署勤務を命ぜられる | 28歳 | |
| 昭和20年8月15日 | 終戦 | ||
| 昭和21年10月18日 | 勝、誕生(有芸) | ||
| 昭和21年10月23日 | 死亡 | ||
| 昭和21年 | 知子、家族となる | ||
| 昭和24年1月18日 | 繁、誕生(岩泉) | ||
| 昭和26年6月23日 | 死亡 | ||
| 昭和26年2月14日 | 永子、誕生(安家) | ||
| 昭和28年4月11日 | 泉、誕生(安家) | ||
| 昭和29年9月22日 | リエ、死亡(彦部定内) | ||
| 1955 | 昭和30年9月26日 | 遠野警察署勤務を命ぜられる | 38歳 |
| 昭和30年9月28日 | 送別会。岩泉署から遠野署異動 | ||
| 昭和31年1月3日 | 力、誕生(宮守) | ||
| 昭和37年9月28日 | 智、誕生(附馬牛) | ||
| 1965 | 昭和40年度 | 永年勤続優良警察職員表彰記念 | 48歳 |
| 1971 | 昭和46年3月31日 | 病気により退職 | 53歳 |
本文
一
明治四十三年、熊藏とリエが結婚し、七年後の大正六年に父、清言が生まれる。大正十四年に熊藏が亡くなり、その二年後に婚姻解消し彦部に戻る。リエ三十九歳、清言十歳であった。
幼年期から父は手先器用で、操り人形を作ったり、だるまの絵を描いたりして校長先生に褒められたと云う事を聞いた事がある。
青年期になると戦争と云う時代の波に翻弄され、昭和十二年には支那に派遣される。昭和十八年に招集解除となり、巡査を志願し、翌年巡査を拝命される。昭和二十年に静代と結婚し、その年に岩泉署に配属となる。田野畑、有家、安家等の駐在所を勤める。
当時、駐在所には電話が無かったと聞いた。連絡手段は、役場の電話を利用すると云うもの。署からの電話があれば役場の人が走って来て知らせに来ると云う、なんとも長閑な感じである。
昭和二十一年に長男、勝が生まれるも、五日後に亡くなると云う出来事がありました。その年の暮れ間近、父が生後間もない女の子を連れて来たと云う。突然の事で母はびっくりしたと聞いた事がある。切実な事情を聞き育てる事になった様です。
昭和二十四年には二男、繁が生まれる。昭和二十六年には長女、永子が生まれ、その4ヶ月後に繁を病気で亡くすと云う出来事もありました。言葉も覚え始め、かわいい時期でもあったと思う。
昭和二十八年、三男、泉が生まれるが、この頃は、知子との別れの時期でもあった。
二
就学を間近に控えていて、知子の親戚に連れて行く事になる。遊んでいる隙に置いて帰って来たと云う。六年の間、我が子として育てたのだから辛い別れだったと想像する。昭和二十九年にはリエを病気で亡くす。
翌年の昭和三十年九月、遠野署に配属となり、宮守駐在所の勤務となる。翌年の一月に四男、力が生まれる。駐在所は線路の近くで蒸気機関車が走っていた。石炭の匂いと菊の匂いが印象に残っている。力が生まれた年の秋に、達曽部駐在所に異動となる。
達曽部では、かまどから電気釜(炊飯器)に変わった。テレビも見れるようになった。生活にゆとりが出てきた時期でもある。
そんな中、力が遊んでいる時、縁側から落ち腕を骨折すると云う出来事もありました。一日がかりで岩手医大まで行った事を覚えています。
駐在所は、地域との交流の場でもある。しょっちゅう飲食会をしていた。裏庭で焼き肉をした事もあった。部落の祭りやイベントで、お酒の機会も多くあった様に思われる。後に、身体に不調をきたす要因となった。
昭和三十七年に附馬牛駐在所勤務となる。この年、五男、智が生まれる。附馬牛は、母にとって、これまでの中で一番、充実した時期ではなかったかと思う。町民運動会で浦島太郎に扮したりもした。小玉さん、新田さん、三浦さん、三浦さんと一緒に、婦人会活動など楽しくやっていた。宮古での海浜学校の帰り、知子姉さんと一緒に帰ってきた事があった。二、三日泊まった。父母にとっては十二年ぶりの再会ではなかったのか。その年、昭和三十九年のクリスマスに知子さんからプレゼントが送られて来た。笑顔で写真に納まった思い出もある。
三
附馬牛駐在所は四年間の勤務でした。
昭和四十一年、土淵駐在所に異動した。土淵は二年間住んだ。昭和四十三年には遠野署本部勤務となる。病気で、駐在勤務に支障を来す様になったのが本部勤務の理由だったと思う。入院するも、合併症からの白内障を患い業務に支障を来す様になり、昭和四十六年三月に退職を余儀なくされた。花巻に新居を持ち生活が始まる。この時父、五十三歳、智、九歳、力、十五歳、泉、十八歳、永子、二十歳である。力は横浜に、泉は自衛隊に、智はまだ小学生である。姉は二年後に嫁ぐ。末っ子と三人の生活になる。父は目が不自由でありながら労働で家庭を支えた。母もパート勤めをした。
母の身体に異変を感じる出来事もあったと云う。食欲がなく、体重も減って来た。原因が分からず、困り果てた父が、ある人に相談し、立正佼成会を紹介されたと云う。今までの色々な思いを聞いてもらったのだろうか、それが先祖供養となった。気持ちが解きほぐされたのか、おにぎり一個たいらげた、と云う。そんな事が入会のきっかけになった様だ。そしてお役を担うまでになった。
父は智が卒業する頃には仕事も一段落して、陶器作りや、面彫りなどをして余勢を楽しんでいた。
それから時を経て父は八十二年、母は八十七年の生涯を終えました。
かつて、勤務した、岩泉署は宮古署と遠野署は釜石署と統合する計画が進み、安家駐在所は岩泉幹部交番に変わる様です。駐在所は変貌しようとしています。これも時代の流れであります。
四
父は軍隊招集解除後、巡査となり、県の治安維持に携わった。釜石には艦砲射撃があった。岩泉まで音聞こえたと云う。二十年八月敗戦となった。公職にある者はどのような扱いになるか不安もあったと云う。
家庭を持ち幾多の困難を乗り越えて育ててくれた父、母に感謝したいと思います。
延佳
写真帖
原本の写真ページ。キャプションは原本に印刷されているものを記載。
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