山梨から北海道豊浦へ。開拓に生き、多くの句を残した俳人・網野呉外(時次郎)を、その子が遺稿とともに偲ぶ。網野悦郎 著・昭和四十三年五月刊。

父と故郷を想う

書き起こし方針:原文の語句・旧表記をできるだけ維持し、縦書きを横書きに改めた。判読に確信が持てない箇所は〔判読保留〕とした。本文題字では著者名が「網野逸郎」、奥付では「網野悦郎」と記されているため、どちらも原文どおり残した。

序文 詩と田をつくる

赤木三平

北海道文化財専門委員のS氏を案内して、私の集配受け持ち区内にある山梨部落に呉外さんの句碑を見るためであるが、この地に住んで五十年の私は、この碑を気にかけながらも一度も見たことはなかった。それらしい羊蹄山、大有珠、小有珠、昭和新山、洞爺湖などが一望の中にあり、そのすばらしい大景観が私の近辺にあるとは驚きであり、私は認識をあらたにした。

真帆片帆どちらに行くも長閑なり

百メートルの丘の頂きに建てられた自然石の碑に刻まれた文字は風化してかすれている。このまま表面からあじわえばなんの変哲もない春の海の句にすぎない。

山梨県は明治四十年の笛吹側、鎌無川の大洪水で家も田も泥沼の中に埋没した。住民の一部は相次ぐ水害に再起の念を捨て北海道に新天地を求めて故郷に袂別した。

明治四十一年五月、山梨県属官の添田敬一郎に引率された県民九十三人はベベシベ港へ上陸した。その翌日、昼なお暗い山道を三十キロを歩いてベベシベ原野の豊浦移民小屋に入った。これからが筆舌に尽くしがたい苦難の開拓の歴史で、六十年の歳月が流れ今ではどうにか生活できる農家になった。

呉外さんもこの団体の総代十一人の中の一人で、その後この部落の区長を勤め中心人物であった。大正四年の春、部落民は相談し呉外さんの功をたたえるため石工の外川熊太郎さんにたのんで、丘の上に句碑を建てた。そのときこの周辺に植えた山桜がいまでも花をつける。

「真帆片帆どちらを向くも長閑なり」、この句は呉外さんが、山梨県を離れる時の心境を句に託したもので「人間の行くところなんとかなるよ」といったおおらかで、淡々とした心境である。

昭和十三年五月、彼はこの句碑のある丘の下家で七十六歳を一期として去った。

辞世の句は

何の苦もみえぬようなり浮く蛙

私は暮れなずむ風景をながめながら詩をつくり田をつくることに思いをつめていた。

私の受け持ち区内は二百五十戸あったが、今では離農して百八十戸になった。その人たちは経済的窮迫がその理由ではない。住む場所に夢がなくなり詩を失ったからだ。

今や農村には詩を作れる人でないと田は作れない時代がきた。

父と故郷を想う

網野逸郎

二ページ

私の故郷は東京と甲府の中間にある上野原町で昔島田村と言ったが、私の生まれた処であります。三十六年ぶりで故郷の土をふみました。祖父も父も私もこの美しい山河に包まれて産まれたのであります。明治の始め、この美しい山里に二人の偉い人が足をとめました。一人は杉山槐軒先生と言って水戸の浪士でありました。父の青年期――

三ページ

――はこの二人の先生に師事して勉強した人が多いのであります。杉山先生は希に見る君子であったそうです。後年島田の中心人物となった小俣景治、上条修徳、槐原源次郎、加藤由松の諸氏は皆其の教えを仰いだ人たちだそうです。先生の句は鉄道も車もなかった明治初年の故郷島田の里をよく表現して居る様であります。

心よく先ず暮れにけり三ヶ月 呉堂

山鳩の鳴くや頻に春眠し 呉堂

どこの雲に気を養けん秋の暮 呉堂

水清らかな桂川を中心としたこの山々を見て何だか胸にしっくりする様な気持ちがします。父は槐原源次郎氏を俳句の友として朝夕の交友会、今尚忘れ難いものがあります。氏は俳号を苔雫と称し俳風独特の風味を帯びております。

初烏百鬼夜行の世をさます 苔雫

薦の窓に古賢の道を拾いけり 苔雫

蚕豆の南柯の夢を判読保留 苔雫

判読保留

祖父の汗知る時は夢はさめにけり

判読保留

判読保留

氏は淡々として名利の外にありながら後年に到り、小俣、上条両氏の後を受けて長く村治に功績を残しました。又女では有ったが俳号を銀舟と呼び、名門の流れとなり、私の隣に住んで居た。常に俳句の友と交を結び、紅一点の感をなし居た。

年立つや松に雪の笠きて 銀舟

ぬくそうに雪の判読保留 銀舟

四ページ

父もそう云う中に其の半生を過ごしながら――

何の苦も見えぬ様なり浮く蛙 呉外

とてもなら寝て聞かんほととぎす 呉外

真帆片帆どちらに行くも長閑なり 呉外

夕立は隣までも来て晴れにけり 呉外

判読保留 呉外

判読保留 呉外

昔、杉山先生、藤波先生と席を共にして、黄色と白の野菊かな、という句を送りました。明治三十三年の波が押し寄せて来て居た。明治三十九年、母と二番目の姉は相次いでこの世を去った。

落ちて知る秋風の悲哀を感じたではなかろうか

ひまな身に想えば長き師走かな

なを寒し共春は春らしき

去年の酔まだ醒めきらで今年かな

こうした父の妻としての母は幸福ではなかったと思います。又父も姉も母亡き後は心の空虚を如何ともする事ができなかったと思います。

こう云う生活が父をして北海道移住を決心した原因ではなかったであろうか。現地は衣手の付け様もない別天地であります。祖父六郎右ェ門は七十歳の老躯を開拓に終始した。

五ページ

生活の不平も人情の不満もない。唯、余生を自然と戦って開拓 判読保留

判読保留

残り気にさぞや咲くらん留守の花 呉外

行く水は行けども丸し月の影 呉外

面影を月に残してほととぎす 呉外

面影に残る柳のしなえかな 呉外

いつまでもつきぬ名残はおしむまじ 呉外

行きて帰らぬ君にあらねど栄えん花の兄 呉外

花盛り知らぬふりせよ鋏づかい 呉外

邂逅あらば思いも出でよ住み馴れし島田 呉外

判読保留

暮の鐘ききつつ春の別れかな

憶いに故郷の土を踏まずして北辺の土と化したのであります。

祖父は既になく、追懐の情を槐原先生に送りました。

亡き人の墓陰に涼し親の恩

汗の後木陰に更けて鳴く蛙

夏の夜や静かに北松の月

故郷遥かに、昭和二年五月二十五日の暖かい春の午後、八十九年の生涯を終わった。

六ページ

そうして昭和十三年五月十七日永眠した。それは文久三年の産まれでありました。時に七十六歳、移住以来三十一年でありました。

年月を共に越しけり年の坂 苔雫

今や亡き三祖であります。

眠い子が寝付かぬ蚤の悪さかな

変る世を変らぬ味や口切茶

売りにけり物足らぬでも冬ごもり

今、父逝いて三十年、肉親の古老又既に世になく、私も姉も老いて祖父の後を追はんとする時、遺稿を便って父と故郷を想うのであります。

ここに来て眠る身なれども夢は迷はん故郷の空。祖父は既になく、ついに故郷の土を踏まずして北辺の土と化したのであります。

追懐の情を槐原先生に送りました。

亡き人の墓陰に涼し親の恩

汗の後木陰に更けて鳴く蛙

夏の夜や静かに北松の月

亡き人の植へし松に見る月はいかに涼しく思はゆるかな

別れてのはや幾世になし盆の蝉

亡き人の居ます思いや蝉の声

鳴く蛙友は少なく同じかな

人は多く友は少なし。父の交友、又嬉しく思われます。然し氏も又、村治の功を世に残し、詩歌の情にして永久の眠りについたのであります。

七ページ

そうした私は昭和十八年一月、姉の招きに応じて津軽海峡を渡ったのが始めでした。知己朋友と同行の中に、知る代々木が原と云う婦人が居りました。

その時は太平洋戦争の最中で、練兵場に到り、西方遥かに富士山を遠望しました。

この後の数段は印刷の重なりと紙面の歪みにより判読保留

その夜珍しく五月の雪が一夜、母の立ち故郷は無言をや、そうして月変えて二月二日兄に伴はれて上野原駅頭に立ち、実家の飯島氏の家で眠ったのであります。

祖父は北辺の土と化しても祖先の墓に、母姉と梶原先生の墓前に到り、自身が童心の昔に帰ったのであります。翌日、既に亡き父の実弟、井上宅に私自ら万吉の墓前に香しました。

この土地を踏むや懐かし雪の朝、二月九日、肉親の愛情に送られて故郷の山河と別れたのであります。

雪になれども不思議にぞ見ゆ古里の雪。父の末弟に延と云う伯父、更に杉山槐軒先生の墓に詣でて、姉の待つ東京に帰りました。

兄又故山の土を踏まず生く道に涼まん夏の已かな

八ページ

父、処世に疎く財を成さず、無名の一生を終わったが、人間味有りて人を愛し人に愛されたり。父、名を時次郎、俳号を呉外と言いました。

月下に罪を見に知る浮き世かな 呉外

花七日見尽くして知る浮き世かな 呉外

眠い子が寝付かぬ蚤の悪さかな 呉外

変る世を変らぬ味や口切茶 呉外

売りにけり物足らぬでも冬ごもり 呉外

今、父逝いて三十年、肉親の古老又既に世になく、私も姉も老いて祖父の後を追はんとする時、遺稿を便って父と故郷を想うのであります。

行く先を誰に問はばや年の坂 呉外

この父の一句は現在の私にもあてはまるのであります。今、父や故郷を追想するのは現在の社会にほど遠い様な気がしますが、せめて児孫にこの一片を残したいと思ったからであります。

(完)

奥付

昭和四十三年五月一日発行
著者・発行人 網野悦郎
北海道虻田郡豊浦町字山梨
印刷所 北海プリント社
北海道虻田郡豊浦町字大和
非売品

原本アーカイブ

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